言語化の功罪

こんばんは。みやてつです。

 

最近Twitter言語化の功罪の話が出てきたので、昔考えていたことを備忘録として書いておきます。

 

言語化の功は日頃実感しているように、自身の考えや感情を上手く整理し、次に何をすべきなのか、何が問題なのかを把握できることです。

 

逆に、罪はTwitterでも出てたように、言語化で取りこぼしてしまうものがあるということでしょうか。あと、言語化による自己規定を過度に強化してしまうリスクもありますね。下手に言語化による自己規定を強化することで、他の可能性を閉ざすことが怖いなあと思います。

 

例えば、私は人脈のハブになっていると強く認識しすぎると、自分の話をする能力が下がってしまい、結果として人としての魅力を失い、人脈のハブにもなれないみたいな経路が考えられます。

 

適度に言語化をして、自己規定をしすぎないように生きていきたいですね。

 

おやすみなさい

下を見ること

 こんばんは。みやてつです。

 

 さっき洗い物をしている時に考えていたことを書き込んで久しぶりの更新にしたいと思います。

 

 お題にある通り「下を見ること」についての話です。下を見ると言うと、一般的には上昇志向でないとか、それ以上伸びないとか悪いイメージがつきまといます。

 

 しかし、私自身は意識的に「下を見る」ことをしており、あえてその効用について説いてみたいと思うわけです。(大した話ではないんですが)

 

 およそ全ての真面目に勉強する気のある大学生が考えることだと想像しますが、大学生活は後悔の積み重ねです。年初にいっちょ前に今年は何を勉強したいみたいな目標を考えて、四月病に罹患し、面白そうな講義をキャップまで取って、6月にだらけ、7月はテストをこなすのが精一杯で可を量産します。そして後悔します。夏休みに復習しようと思い旅先に教科書を持参して、ただの筋トレグッズにしてしまいます。また後悔です。

 

 器用な人は優をとるわけですが、多分その人たちは参考文献を全部読み切れていないことを後悔しています。多分というか実際にしています。東大に入って自分より賢い人、自分より処理能力の高い人を山ほど見てきましたが、自分のやりたい勉強をすべてこなしきっている人など見たことがありません。皆一様に自分と同じことを考えています。

 

 そういう人を見ていると自分はこれだけしかできていないのに、あの人はあんなにやっていてまだ足りないと言う、自分はカスだという気持ちに苛まれます。そのような感情は自分に正の動機付けを与えてくれる場合もあります。一方で、優秀な人の過剰摂取になってしまうと、自分よりできる他人の成果が見える分、後悔にレバレッジがかかります。

 

 そのような後悔のレバレッジを軽減する方法として、私は意識的に「下を見て」います。大学での学修は所属する大学の受験偏差値に必ずしも比例しませんが、そうはいっても東大生である以上、自分よりできない人もまた山ほどいます。その人たちの積み重ねと自分の積み重ねを比較することで後悔は軽減します。

 

 勘違いしてほしくないのは、下を見る行為というのは単純に下を見て安心するとか、馬鹿にするとかそういう行為ではないということです。肝心なのは下の積み重ねを精確に測り、自分自身のの積み重ねが社会の正規分布(?)のなかでどこに位置するかを理解することです。

 

 できる人とだけの比較の中で病むよりも、下も見て、社会の中でどの位置に自分が立っているのかを把握しようと努めることで、一度冷静になることができます。

 

 そうすれば、散乱した後悔の種の中から次に取り組むべきものを拾いあげることができるような気がするのです。一歩前へ踏み出すために必要なものが見える気がするのです。

 

 後悔を俯瞰して整序して、それでも私は前に進むのです。というお話でした。

 

 おやすみなさい。

 

院卒の待遇にまつわる議論について

昨日お風呂に入ってるときに考えたことを整理するためのブログです。

 

テーマは主に院卒の採用について。確実に既出の話だと思うので、何か思いついたという話ではなく、議論の整理をしていると考えてもらえると幸いです。

 

大学は社会で使える人材を育成しろという企業の圧力について

 まず、院卒と関係ない方の話から。この主張って端的に言ってクソですよね。私大はともかく国公立大学は企業が人材育成コストを転嫁できる福祉施設じゃないンだわ。こういう企業は晴れてるときは新自由主義だ!成長だ!とか言いつつ雨が降ってるときは被害者ヅラしてそうなので本当に偽物でしかないと思う。日本電産を見習おう。

 

院卒が学部卒と同じ給料なのはおかしいという主張について

 院卒が評価されないことを嘆く主張だが、寧ろ院卒というだけで給料が自動的に高くなるのは意味不明な学歴差別なのではないだろうか。日本では東京一工や早慶などの名門大学が優遇されているではないかという反論があるかもしれないが、これはポテンシャル重視の新卒就活の中で主な評価対象になる言語処理や計算、論理などの基礎能力の習得状況と因果的統計的な関係があるからで、採用にかかる莫大なコストを考えると全体最適になっている可能性が高い。勿論、本当は賢いのに受験勉強が苦手でFラン大に行ってしまい、そのせいで就活に苦しむといったケースも多く存在することは否定しないが。この点から考えると、院卒がポテンシャルベースで学部生よりも因果的統計的に優位であるならば給料が高くなるべき(少なくともそうしない企業は認知が歪んでいる)ということになる。ところが、評価対象になっている基礎能力はその名の通り基礎的なものであり、例えば数学のように上には上がいるという性質が強いわけではない。数学の能力値が1~1000のオーダーで分布しているとすると、基礎能力は1~100ぐらいのオーダーでしか分布しておらず、学部生でも90を満たすことが容易なのではないか。つまり、仮に院卒が優位だとしても高々90と100の差であり因果的統計的に給料を上げるべき根拠にならないと考えられる。当然、この議論は特に何かのデータに拠っているわけではなく、私自身大学院に進学していないので予備的な考察の域をでない。反論が色々出てくると嬉しい。

 

 ここまで院卒という大きな括りで考えてきたが、もう少し詳細に検討すると院卒にもゴリゴリの理系(例えば材料工学を研究をしていましたとか)など企業で直接的に利用可能な専門知識を持つタイプと、(哲学に代表されるような)それ自体が企業で利用可能なわけではない知識を持つタイプがいるだろう。材料工学は材料系の会社で使えるだろうが、カントを利用してビジネスをする会社はない。前者の利用可能タイプについて考えると、これは既に研究室を通した就職や、専門職・研究職といった形で(総合職と比較した給与水準はともかく)、一定の評価を受けて就職しているように思われる。問題は企業との関りが薄い分野を専攻している人々の採用に絞られたわけだ。しかし、これらの人々は上述したように学部生に比べて因果的統計的に基礎能力が優れているかどうかについて疑問の余地がある。ちなみに就活四季報をパラパラと見ていると院卒の給与を学部生より高めに設定している企業もちらほら存在する。これらの企業は因果的統計的な優位性を見出していると考えられるのではないか。その判断の成否は当該企業の行く末にかかっている。また、類似の主張として院卒の力を活かす体制を求める議論もあるが、これに応じるかは企業の自由である。院卒の給与を高めにしている会社はこの議論に応じていると捉えることもできるかもしれない。これは、ポテンシャルベース以外の評価を新卒就活で行うことの是非に関わる話だが、十分考察できていないのでここでは議論しない。

 

まとめ

 まとめると、少なくともポテンシャルベースの新卒就活を前提にすれば、企業の事業分野に関係ない分野を専攻した院卒は自らのポテンシャルベースでの学部生に対する因果的統計的優位を掲げて企業に圧力をかけていくのが筋ということになるだろう。反対にそのような論拠を伴わずに、単に院卒を優遇しろというのは学歴差別のより醜悪な形態でしかない。

 

ちなみに、哲学の能力を活かす方法を自ら提示している鳥チャンのスタンスが私は好きです。自分の就活でもそれに近いことをしている。

グループワークのやり方について

こんばんは。みやてつです。

 

就活で何回かグループワークをやったので、こうやったら上手く行くみたいなメモを残しておきたいと思います。想定しているのは課題を探し出して解決しようみたいなタイプのやつです。

 

わかりやすいように先に順番通りに羅列すると

①ざっとその範囲について調べる

②主要な課題を洗い出す

③課題に関する既存のアプローチを調べる

④既存のアプローチができていない点を探す

⑤その点を解決する施策を出す

という手順になります。

 

①②③の工程はまず課題周辺のことをネットで調べてよさげな記事を読んだりすることから始まります。便利な時代なので2時間もすればその分野の主要な課題と現在行われている対策が理解できると思います。特に官公庁が出してるペーパーやシンクタンク、政府系機関の出している文書はわかりやすくまとまっているものが多い印象です。

 

僕が行ったインターンでは①②③の工程をすっ飛ばして頭をひねり始める人が多くて困惑しましたが、④になってやっと頭を使うパートに突入します。既存のアプローチがやってないことや、何かしらの障壁があって出来ないことを考え、新たな施策や障壁を迂回するようなアイデアを考えます。いい感じのアイデアが出るかはその場の運次第ですが、これができれば無事⑤の工程を終えられたことになります。

 

インターンでされている発表を見ていると論理性以外で大体問題になるのは新規性のなさか、現実離れしすぎていることですが、この手順をしっかり踏めば適度な新規性と現実性を両立できるのではないでしょうか。

 

ついでに気づいたことを言うと、実際に①~⑤のような手順を踏んで作業を進めるときに、自分が今やっているのはどの作業なのかよくわかってないまま作業している人が意外と多いです。似たようなタイプでアウトラインが組み立てられない人も多かったですね。どうやら論理的に整合性があるように議論を組み立てて、自分が今アウトライン上の何を考えているのかを逐一把握できることは特殊技能のようです。友人の範囲だとこれができない人ってほとんどいないから常識だと思っていましたが。

 

以上、グループワークの方法論(笑)と感想とかでした。それでは

東大で一番しんどい人

こんばんは。みやてつです。

 

今日は東大で一番しんどくなるタイプの人の話をしようと思います。

 

皆さんはインターネットに出ている東大生の類型論みたいな話を見たことがあると思います。陽キャ陰キャがいて~みたいなあれですね。あれをもうちょっと精緻にできるんじゃないかという話です。

 

僕も文三スペイン語出身なので当初はそういう類型で周りの東大生を区分していました。陽キャは楽しそうで陰キャは陰鬱で~みたいなことを言っていたと思います。

 

ところが、Twitter経由で色々な人と会ったり何より法学部の知り合いができたことによって、陰キャにも2種類いることがわかってきました。すなわち、陰キャにも何かに異常に詳しくて面白いオタクとただ根暗なだけの人間がいるんです。

 

知り合いの数が少なすぎて前期課程では気付かなかったんですが、前者のオタクと呼ぶべき人々はかなりの数大学にいて、コミュニティが形成されています。

例えば、某ゼミの界隈であったりとか、それこそ私のフォロワーの界隈とかがオタクコミュニティにあたります。

 

んで、ここからタイトルを回収するわけですが、陰キャを丁寧に把握して、陽キャ・オタク・根暗の三つで考えると一番つらいのって根暗じゃね?と思っています。

 

陽キャが楽しいのは言うまでもありませんが、オタクは学内ではオタクのノリを存分に発揮することができるコミュニティが存在します。ところが、ただの根暗は陽キャとはくっつけないし、オタクコミュニティではノリを共有できない、話が面白くないといった理由でどことなく距離感が生まれてしまいます。陽キャにくっつくよりは親和性があるのでオタクコミュニティに存在はしますが、壁ができてしまうわけです。

 

東大という世間とはかけ離れた環境だからこそ起きてしまう根暗の悲劇ですが、社会に出ればまた状況が変わってくるのではと思います。社会ではオタクのノリを発露することは当然に禁止されます(風呂に入っていなさそうなので仕方ありません)。また、オタクもなんだかんだ色んな会社に散らばってしまうので、退勤したらマスクを外してオタクに戻るということもできません。また、陽キャ陰キャの区分で語れる世界に戻ってしまうわけですね。

 

私も来たる未来に備えて健常なコミュニティで話しても問題ない健常な話題を提供できる主体になっていきたいと思います。

 

それでは

私の人生のトリレンマ

こんばんは。みやてつです。

 

寝れないので何回かTwitterでも書いている人生のトリレンマの話をしようと思います。

トリレンマは三つを同時に成り立たせることができないものぐらいの意味で捉えてください。

 

私は大雑把な人生の目標として

①学問的に大成すること

②お金を稼ぐこと

③子供を育てること

の三つを掲げています。

 

これだけなら、全部できるやんと思うかもしれませんが、私は自分に対する期待値が無駄に高いのでどれもそれなりでは満足できないかなあと思ってしまいます。

 

じゃあ具体的にどのレベルを目指すのかと言うと、学問に関しては教授になって単著を出すラインまで、金を稼ぐことについては1年に何千万ではなく、何億の単位、子供を育てることに関しては2人以上を育てたいなと考えています。

 

しかし、困ったことにこのラインまで目標値を吊り上げてしまうと、これら3つを同時に達成するのが極めて困難になってしまいます。学問と子育てを両立している大学の先生はそれなりにみますが、彼らが滅茶苦茶稼いでいるようには見えません。お金を稼ぎまくって子育てをしている人も沢山いると思いますが、彼らの中で研究者として成果を出した人はいないんじゃないかと思います。学問とお金を稼ぐことはそもそも両立ですら難しいわけですが、ベストセラーを出すとかそういう裏技を使っても子育てに回す時間があるかは怪しそうです。

 

もちろん、子育ては相手がいることなので個人の「目標」として設定するのはどうなのという話もありますし、これらが達成できなかったら即不幸せという訳では全くないのですが、このトリレンマを解消出来たら気持ちいいだろうなあと思って生きています。

 

眠気が全く来ないので困っていますが、これ以上書くこともないので今日はここまでにします。

 

 

 

 

32歳腐女子のブログとその友人のブログを読んで

しばらく前に話題になった32歳腐女子のブログとその友人のブログをようやく読んだので軽く感想を書きたいと思います。リンクは下記。

32歳腐女子自分の子供っぽさに気づいて恥ずかしくなる

「32歳腐女子」の友人側の話。 - 腐女子、30歳、ぼやき。

 

リベラルな?みなさんが言う「自分らしい生き方」と「社会」の相克の話ですね。

 

友人側が何回も強調してるように人それぞれだから好きにしてればいい話なんですが、一方でどうもこの社会では32歳腐女子のような人間は後々詰んでしまう仕様になっているらしいので......という感じでしょうか。

 

政治哲学の用語に「理想理論」と「非理想理論」というのがあります。強調したい部分以外を捨象して説明すると「理想理論」はあらゆる人がルールを守ったりするなどの理想的な状況を前提として組み立てられる正義の理論で、「非理想理論」はルールを守らないやつが出て来るなどより現実に近い状況の中で組み立てられる理論を指すんですが、これを思い出しましたね。つまり、理想理論的には腐女子は何も悪くないんですが、現実社会はそのようにはできていないので非理想的な現実社会への適応の話に絞ると友人側が正しくなりそうということです。

 

某が指摘するように友人が「仲良くしたかったです」と最後に添えるのは健常しぐさが過ぎないかという気がしますが。

 

ところで、一つ疑問に思ったのですが、ほんとに32歳腐女子みたいな人間って詰むんでしょうか?これまではああいう人間を生み出さないような社会になっていたので先例が存在しない分、あのような人種が50歳や60歳になった時にどうなるのかは実は未知数なのかもしれません。

 

アラサーで同年代とのコミュニティを持てずに年下とエンカwとか言って騒いでる人間は現時点でかなり厳しい気がするので杞憂かもしれませんが。

 

ついでに言うと、32歳腐女子は健常への志向を一応持っているようだし異常者であることを恥じているのでここには救いがあるのかなと思います。タチが悪いのは健常者の癖に異常者ぶっちゃう人間で、この手の人間はある年齢になれば何事もなかったかのように健常者に戻る気がするので、そういう人間と比べるとまだ腐女子の方が葛藤があって好きですね。

 

私は異常者を名乗り続ける自信は微塵もないし、現にTwitterの魑魅魍魎のなかではかなりまともな部類であると自認しているので胸を張って健常な生活をしていきたいと考えています。