26歳素人童貞のブログを読んでみた

某に「26歳素人童貞のブログ」を批評してほしいと言われたので、読んだうえでの感想を少し書く。当該記事はこちら。

人妻デリヘルレポート、あるいは、俺は凄いということ - 26歳素人童貞のブログ

 

 私は常々アナルを舐める人に悪い人はいないという持論を唱えているが、このブログにまた一つ好例を見つけた。ちなみにフェラした後にキスしてもいい人であることが道徳的に正しいという筆者の主張にも全面的に同意するが、一方でその手の「徳」は口にした瞬間にその徳性を失ってしまうという性質があり、そっと唇をふさぐのが正しい態度になるのだろう。

 私は性癖上口内に射精する確率が高いので往々にして精子が残存した口に舌をねじ込むことになるのだが、女性の方が引き気味なることが多い気がする。私としては徳というか当然の行為として為しているので気にせず受け入れて欲しい。(別にそのことに快感を覚えるタイプではないのであくまで「ただのキス」をしているつもりであることも付言しておきたい。)

 なお、今まで相手の口から精子の味がしたことはない。一応自分の精子の味は知っているから本当に味がしていないだけだとは思うが、味が変わってしまっているならば感じ取れていないだけなのかもしれない。

めちゃくちゃちんマっぽい健マに行った話 後編

今晩は。最近筋トレをしているんですが、食べる量は以前と変わらないまま筋肉がついていくのでどんどん身体が佐山聡っぽくなってきました。

 

前回の続きから書きます。

 

ニュー新橋ビルでお目当ての店に入るとこからでしたね。

 

入店すると店内は薄暗くなっていておばちゃんかお姉さんか際どいぐらいの女性が出てきました。「ドウゾドウゾ」の導きに従っていきなりベットへ。「コースドウスル」と言われたので角質と全身60分をオーダーします。

 

着替えを済ませるとパーテーションを開けてギリギリお姉さんと呼べるぐらいの眼鏡の女性が入ってきました。「オニイサンウツブセ」「キョウドコツライ」と絶妙な片言具合の日本語でコミュニケーションを取ります。ここら辺も死ぬほどちんマっぽい(僕はちんマ行ったことはないけどね)んですが、お姉さんの手は鼠径部に触れたりすることはなく背中を押されます。

 

それにしても、アジアのマッサージってなんであんなゴリゴリやるんですかね。路上で戦ったらどうみても勝てそうな華奢なお姉さんなんですが、信じられない力で腰回りを圧迫されます。

 

施術中はこっちは無言で向こうは他の店員ズと談笑しつつという感じでしたが、仰向けになる時に「ウフフ」と笑いかけられたり、随所にちんマっぽさがちりばめられています。

 

仰向けになってからも何事もなく施術は終了。お茶をいただきお店を出ます。

 

去り際に「マタネ」と笑顔で手を振るお姉さん達。最後までちんマ感というか風俗感が強い健マ体験でした。

 

 

めちゃくちゃちんマっぽい健マに行った話

今晩は。コロナで暇なので久しぶりにブログを書きます。

 

外出自粛になっていた日曜日に要・急の用事を済ませた後、以前某氏と話題になったニュー新橋ビルに行ってきました。

 

ニュー新橋ビルは新橋駅を出てすぐのところにある11階建てぐらいのビルで1971年築のかなり旧いビルディングです。旧さゆえに再開発の噂が絶えないわけですが、今までしぶとく生き残っているよう。

 

そんなニュー新橋ビルですが、低層階には金券ショップや中華マッサージ、ホビー系の商店などキワモノのお店が並んでいて独特の雰囲気があります。足の角質が五十路を迎えた母ぐらい硬くなっていたのと何となくお金が余っている気がしたのでマッサージ屋に入ることにしました。

 

ところが、ここのマッサージ屋は一癖あって雰囲気がめちゃくちゃちんマっぽいんですよね。(ちなみにちんマとはちんちんマッサージの略で、よくわからない雑居ビルの前に妖しげな色の看板だけ出ているアレです。ちんマという呼称自体は正統な由来があるんですがまあ措いておきましょう)

 

この日は流石に時世が時世なのでシャッターを下ろしている店がほとんどでしたが、あう店舗にはもう完全にそれにしか見えないようなホットパンツでスマホをいじるお姉さん。ある店舗は「オニイサンコッチ、スグデキルヨ、キモチイヨ」と言いながらイヤホンの僕を追いかけてきます。

 

一軒完全にファッションヘルスと明記してあるお店がありましたが、他は一応健マ(健全マッサージの略。今考えました)らしいんですが…

 

お目当てのお店ももしかしたらちんマ要素を含むかもしれないという不安と期待(?)を抱きつつニュー新橋ビル2階を徘徊します。

 

続きは明日にでも。

「政治思想史はまだ存在しているか?」

こんばんは。久しぶりにブログを書きます。

 

今日某所でバイトしつつ前から積読にしていた河野有理先生の「政治思想史はまだ存在しているか?」(『思想』2019年7月号)を消化したのでメモを残すのが目的です。

 

政治思想史は「政治学の辺境」「衰退産業」としての自意識を募らせて長い自信喪失状態に陥っていた。その大きな要因になったのはKKVの登場である。KKVは、「定量的研究と定性的研究との違いが、単なるスタイルの違いに過ぎず、方法論的にも実質的にも重要な違いではない」と主張した本であり、根源的な推論のルールに従うことで、定性的研究者も科学者となることができるとされている。これに対し、科学者になるための方法はそれだけだろうかと問いかけたのが「Two Cultures」(社会科学のパラダイム論争)である。「Two Cultures」は定量的研究と定性的研究を方法論的に異なるパラダイムに存在するものだとして、この差異に合意した上でパラダイム間の協働を目指すべきとする。しかし、これらの文献は「因果推論こそが研究の課題であり目標である」という大きな前提を共有していることに注意が必要である。果たして全ての研究者が因果関係に興味を集中しなければならないのだろうか?と筆者は問う。

 

第二の道として挙げられるのは規範理論である。だが、規範においても特定の規範原理についての道徳的推論や正当化を目指す哲学は、世界についての客観的知識を増大させるという意味で、諸事実ないし事象間の因果連関を解明しようとする科学と同様の作業であり、(ロールズノージックをみよ)因果推論派との協働が可能である。では、政治思想史の居場所はどこにあるのだろうか。

 

ここで筆者は、まず政治思想史家は、自らが因果関係にそこまで興味や関心がないことをもっとはっきり自覚すべきだと唱える。勿論、政治思想史が因果関係と全く無縁であるわけではなく、例えばある思想家が時代を経るにつれて異なった主張を展開し始めたケースに於いて、その原因について政治思想家が思いを巡らすことは間違いない。ただ、こうした意味での因果連関はKKVやTwo Culturesが問題とする因果推論とは大きく異なるものではないだろうかと筆者は問いかける。

 

さて、因果推論でも道徳的推論でもないのならば、政治思想史とはいったい何なのであろうか。よく持ち出されるのは「解釈」である。KKVやTwo culturesはそうした研究者に解釈学派の称号を与えて、何か深遠なことをしているヒトビトとして扱う。KKVでは解釈学派の代表格としてG・ギアツを取り上げ、外形的な行為の記述(=薄い記述)としては区別不可能なものの背後に潜む社会的なコードを明らかにする「厚い記述」を行っているとする。しかし、これは文化人類学的対象にまつわる問題であり政治思想史家の主な関心の対象ではない。

 

では、政治思想史家がやっていることはなんなのだろうか。筆者はKKVの言い方を借りて「ただの記述(mere description)」とする。ただの記述は過去の著作者の主張群の再構成、もっと言えば要約を目的とする。実はKKV自体はこの形式の記述の重要性を等閑視しているわけではない。なぜならそれは因果推論の元になる基礎的なデータを構成するからである。

 

その上で筆者はKKVに対して以下の三つの不満を呈する。

①KKVはただの記述や要約がそれ自体で実はかなりチャレンジングな作業であることを見落としている

②この世には因果推論とは関連付けられていないが知的に興味深いただの記述に満ちている

③実際の政治はただの記述によって動かされる度合いが大きいため、政治学や政治にとってそれは重要

 

これらを踏まえて、筆者は政治学に於ける政治思想史の役割をKKVが「経験的な問題というより哲学的な問題であり、本書の枠を超えている」とした「政治に関する最も重要な問題の多く(代理、義務、正当性、市民権、主権)」に哲学的にだけでなく思想史的に分析することであるとする。すなわち、それらが本来どう意味でどうあるべきかという問いと並行して、それらがどういう意味で用いられてきて、どういう意味で受け止められ、どういった情動やイメージを喚起するのかという問いを探究することである。この作業を通して、政治思想史は「政治言語の用法」「概念の交通整理」という任務を担っていこうと提案する。

 

 

以上が要約です。久しぶりに文章を書いたんですが、本当にTwitterというのが恐ろしいアプリケーションであることを痛感します。文章は得意でこそないが、それなりに書けたはずなんですが、ひどい要約に1時間近くかけてしまいました。論文自体への感想ですが、ひとまず政治思想史の「有用性」については諒解ができて、その上で因果推論や道徳的推論が提示するような「主張の真理性」の担保を政治思想史はどう行うんだろうかという疑問があります。この論考でそこについての言及はなされているでしょうか。また、因果推論や道徳的推論が提示する真理性担保の方法はそれ自体妥当なものでしょうか。ここら辺はフェミニズムの理論的な発展なども参考にできそうですね。

 

ブログであることに甘えてお気楽に疑問だけ投げたところで夜も遅いですし、寝るポーズだけでもしたいと思います。それでは

 

8月15日

終戦の日ですね。東京にいないのでぼーっとテレビ見てるだけでしたが。ここ数日は午前中本を読んで(中北『自民党』がメイン)、午後は民法シケプリを読むなどしています。今日も大体そんな感じでしたね。

 

地元は僕が勝手に逆尾鷲と呼んでるんですが、今回の台風もろくに雨が降らない、風も大したことないでつまらなかったです。地理的な要素がなんかあるんでしょうかね。本当に平穏な街です。

 

ところでさっきTwitterでも言ったんですけど、人間の分泌液は大概強烈な臭さなので性交時に女性器を舐めるのが上手い人間ほど嫌な思いをする構造になってるのって理不尽ですよね。これは女性も然りなんですが。僕はこれが嫌なのでできるだけ他のところでお茶を濁そうとする(特に風俗では)んですが、皆さんはどうでしょうか?

 

それではまた明日。

8月14日

朝食は家族でチャイや野菜、パンなど。文化的ですね。

 

自分の書いたブログは見直したりは一切してないんですけど、改行ってこんな感じでいいんですかね。なんとなくブログは改行が多いイメージがあります。 ゎら

 

午前中は中北『自民党』をのんびり読んで、午後は将棋指したり民法シケプリ読んだりしてました。夜に中学校の同級生とご飯に。地元のコミュニティと大卒アッパーミドルのコミュニティの狭間にいるような人なので話が面白く、かつ新鮮ですね。

 

帰宅してからは割とすぐに床で寝落ちしてしまいました。2時半に目が覚めて今に至るので仕方なくブログを書いています。

8月13日

本当は河内小阪からJR河内永和に戻っておおさか東線の北半分を潰して新大阪経由で帰るつもりだったのですが、前日の酔いから醒めぬままに荒本付近から出発。

 

しかし転んでもただでは起きぬのが乗り潰しer、長田まで歩いて近鉄けいはんな線を乗り潰します。学研奈良登美ヶ丘からは奈良交通のバスで高の原へ。実家に帰り、家族で居酒屋に逝きました(僕は烏龍茶でしたが)

 

流石に胃腸も回復して今に至ります。明日が終わってしまわないように、そろそろ寝たいと思います。