下を見ること

 こんばんは。みやてつです。

 

 さっき洗い物をしている時に考えていたことを書き込んで久しぶりの更新にしたいと思います。

 

 お題にある通り「下を見ること」についての話です。下を見ると言うと、一般的には上昇志向でないとか、それ以上伸びないとか悪いイメージがつきまといます。

 

 しかし、私自身は意識的に「下を見る」ことをしており、あえてその効用について説いてみたいと思うわけです。(大した話ではないんですが)

 

 およそ全ての真面目に勉強する気のある大学生が考えることだと想像しますが、大学生活は後悔の積み重ねです。年初にいっちょ前に今年は何を勉強したいみたいな目標を考えて、四月病に罹患し、面白そうな講義をキャップまで取って、6月にだらけ、7月はテストをこなすのが精一杯で可を量産します。そして後悔します。夏休みに復習しようと思い旅先に教科書を持参して、ただの筋トレグッズにしてしまいます。また後悔です。

 

 器用な人は優をとるわけですが、多分その人たちは参考文献を全部読み切れていないことを後悔しています。多分というか実際にしています。東大に入って自分より賢い人、自分より処理能力の高い人を山ほど見てきましたが、自分のやりたい勉強をすべてこなしきっている人など見たことがありません。皆一様に自分と同じことを考えています。

 

 そういう人を見ていると自分はこれだけしかできていないのに、あの人はあんなにやっていてまだ足りないと言う、自分はカスだという気持ちに苛まれます。そのような感情は自分に正の動機付けを与えてくれる場合もあります。一方で、優秀な人の過剰摂取になってしまうと、自分よりできる他人の成果が見える分、後悔にレバレッジがかかります。

 

 そのような後悔のレバレッジを軽減する方法として、私は意識的に「下を見て」います。大学での学修は所属する大学の受験偏差値に必ずしも比例しませんが、そうはいっても東大生である以上、自分よりできない人もまた山ほどいます。その人たちの積み重ねと自分の積み重ねを比較することで後悔は軽減します。

 

 勘違いしてほしくないのは、下を見る行為というのは単純に下を見て安心するとか、馬鹿にするとかそういう行為ではないということです。肝心なのは下の積み重ねを精確に測り、自分自身のの積み重ねが社会の正規分布(?)のなかでどこに位置するかを理解することです。

 

 できる人とだけの比較の中で病むよりも、下も見て、社会の中でどの位置に自分が立っているのかを把握しようと努めることで、一度冷静になることができます。

 

 そうすれば、散乱した後悔の種の中から次に取り組むべきものを拾いあげることができるような気がするのです。一歩前へ踏み出すために必要なものが見える気がするのです。

 

 後悔を俯瞰して整序して、それでも私は前に進むのです。というお話でした。

 

 おやすみなさい。