「政治思想史はまだ存在しているか?」

こんばんは。久しぶりにブログを書きます。

 

今日某所でバイトしつつ前から積読にしていた河野有理先生の「政治思想史はまだ存在しているか?」(『思想』2019年7月号)を消化したのでメモを残すのが目的です。

 

政治思想史は「政治学の辺境」「衰退産業」としての自意識を募らせて長い自信喪失状態に陥っていた。その大きな要因になったのはKKVの登場である。KKVは、「定量的研究と定性的研究との違いが、単なるスタイルの違いに過ぎず、方法論的にも実質的にも重要な違いではない」と主張した本であり、根源的な推論のルールに従うことで、定性的研究者も科学者となることができるとされている。これに対し、科学者になるための方法はそれだけだろうかと問いかけたのが「Two Cultures」(社会科学のパラダイム論争)である。「Two Cultures」は定量的研究と定性的研究を方法論的に異なるパラダイムに存在するものだとして、この差異に合意した上でパラダイム間の協働を目指すべきとする。しかし、これらの文献は「因果推論こそが研究の課題であり目標である」という大きな前提を共有していることに注意が必要である。果たして全ての研究者が因果関係に興味を集中しなければならないのだろうか?と筆者は問う。

 

第二の道として挙げられるのは規範理論である。だが、規範においても特定の規範原理についての道徳的推論や正当化を目指す哲学は、世界についての客観的知識を増大させるという意味で、諸事実ないし事象間の因果連関を解明しようとする科学と同様の作業であり、(ロールズノージックをみよ)因果推論派との協働が可能である。では、政治思想史の居場所はどこにあるのだろうか。

 

ここで筆者は、まず政治思想史家は、自らが因果関係にそこまで興味や関心がないことをもっとはっきり自覚すべきだと唱える。勿論、政治思想史が因果関係と全く無縁であるわけではなく、例えばある思想家が時代を経るにつれて異なった主張を展開し始めたケースに於いて、その原因について政治思想家が思いを巡らすことは間違いない。ただ、こうした意味での因果連関はKKVやTwo Culturesが問題とする因果推論とは大きく異なるものではないだろうかと筆者は問いかける。

 

さて、因果推論でも道徳的推論でもないのならば、政治思想史とはいったい何なのであろうか。よく持ち出されるのは「解釈」である。KKVやTwo culturesはそうした研究者に解釈学派の称号を与えて、何か深遠なことをしているヒトビトとして扱う。KKVでは解釈学派の代表格としてG・ギアツを取り上げ、外形的な行為の記述(=薄い記述)としては区別不可能なものの背後に潜む社会的なコードを明らかにする「厚い記述」を行っているとする。しかし、これは文化人類学的対象にまつわる問題であり政治思想史家の主な関心の対象ではない。

 

では、政治思想史家がやっていることはなんなのだろうか。筆者はKKVの言い方を借りて「ただの記述(mere description)」とする。ただの記述は過去の著作者の主張群の再構成、もっと言えば要約を目的とする。実はKKV自体はこの形式の記述の重要性を等閑視しているわけではない。なぜならそれは因果推論の元になる基礎的なデータを構成するからである。

 

その上で筆者はKKVに対して以下の三つの不満を呈する。

①KKVはただの記述や要約がそれ自体で実はかなりチャレンジングな作業であることを見落としている

②この世には因果推論とは関連付けられていないが知的に興味深いただの記述に満ちている

③実際の政治はただの記述によって動かされる度合いが大きいため、政治学や政治にとってそれは重要

 

これらを踏まえて、筆者は政治学に於ける政治思想史の役割をKKVが「経験的な問題というより哲学的な問題であり、本書の枠を超えている」とした「政治に関する最も重要な問題の多く(代理、義務、正当性、市民権、主権)」に哲学的にだけでなく思想史的に分析することであるとする。すなわち、それらが本来どう意味でどうあるべきかという問いと並行して、それらがどういう意味で用いられてきて、どういう意味で受け止められ、どういった情動やイメージを喚起するのかという問いを探究することである。この作業を通して、政治思想史は「政治言語の用法」「概念の交通整理」という任務を担っていこうと提案する。

 

 

以上が要約です。久しぶりに文章を書いたんですが、本当にTwitterというのが恐ろしいアプリケーションであることを痛感します。文章は得意でこそないが、それなりに書けたはずなんですが、ひどい要約に1時間近くかけてしまいました。論文自体への感想ですが、ひとまず政治思想史の「有用性」については諒解ができて、その上で因果推論や道徳的推論が提示するような「主張の真理性」の担保を政治思想史はどう行うんだろうかという疑問があります。この論考でそこについての言及はなされているでしょうか。また、因果推論や道徳的推論が提示する真理性担保の方法はそれ自体妥当なものでしょうか。ここら辺はフェミニズムの理論的な発展なども参考にできそうですね。

 

ブログであることに甘えてお気楽に疑問だけ投げたところで夜も遅いですし、寝るポーズだけでもしたいと思います。それでは